隣町で泣いたあの日
あれは小学校1年生の頃だっただろうか。
当時、仲の良かった友達5,6人(誰がいたかはもう覚えてない)と自転車に乗って遊びに出かけたことがある。
子供というのは大抵いつも全力であるから、僕たちも自転車をめいいっぱい漕いだ。気がする。そしていつしか、陽が傾く頃には、全く見たこともない気色の中にいた。
みんな軽いパニックになった。自分たちの知らない世界に迷い込んだ、踏み込んだ感覚があった。
小学校1年の団体が迷子になったのである。そりゃあ気が動転したりもする。おまけに綺麗な夕日はもう沈もうとしていた。自分はたしか、大泣き、とまではいかないがそれなりに泣いた記憶がある。
みんなでどうにか家に戻ろう、と自転車を押して少し歩いた頃、友達の1人が「俺、ここ通ったことある!」と叫んだ。わっ、とみんなの顔に活力が戻り、あとはもう全力でどうにか家に帰った。
実はそれから数年だったか十数年だったか経った頃、一つの事実に気付いた。
みんなが泣いたあの場所は、なんてことない、地元の駅からたったひと駅しか離れてなかったのである。情けないような、笑っちゃうような、なんだか柔らかい気持ちになったのを覚えている。
大人になるにつれて、世界に対する認識は変わっていく。
知らないことでも知っている風になるし、未知だったことでも様々な情報に触れることができる。つまりは予測ができるようになったのだ(想像や妄想とも言う)。
でも、実のところは認識が拡張されただけで、実際のところ触れている世界というのは、子供の頃とそんなに変わらないんじゃないか、とも思う。
知った気になる、気付いた気になる、ばかりではなく、たまには不安になるほどの世界に踏み込むのも悪くないんじゃないかと、ふと考えた。