よりぶろ

アプリのUIとかについて書いてく予定

人を責める前にシステムを疑え

国立競技場の件に端を発した諸々の問題、デザインに少なからず携わる人間として思うことは色々あるけれど、今回のことに限らずタイトルのような考えを自分はずっと持っている。

個人に対しての指摘や批評批判をなくせと言いたいわけではなく、でもそれだけにみんなが注力しちゃうと何にもハッピーにならないよねという。確かに効率的ではあるんだけれど、生産的ではないように思う。つまり、その人個人に対して何かしらの効果(プラスにしろマイナスにしろ)は一定量あるんだろうけど、その人に対してのみで終わってしまうような気がするんですよね。あなた、今後はしっかりしなさいよ、で終了。次また同じことが(例え担当者を変えたとしても)起こるとも限らない。

それに比べると、じゃあなんでそうなってしまったの?実はヒューマンエラーの裏にはシステムのエラーとか仕組みの不備があったんじゃないの?みたいな考えをもとに物事を見ていったほうが、その仕組みに関係する人全員に対して効力があって、長期的には広範囲に渡って影響を及ぼすことができるんじゃないかなあと思うのです。システムだって元は人が作ったものですしね。

ただこれは一種の危うさも含んでいて、どういうことかと言うと、良いデザイン(あるいは良いという見方そのもの)って何なのさ、って話になってしまうと、究極的には教育とか政治の話に行き着くような気がしてるんですよね。いきなりそこまで話が飛んじゃうとそれはそれで何も進めなくなっちゃうのかなと。なので、もう少し段階的にシステムのフローを見てみることで、何かしら解決の糸口が見つかるような気がします。それは今回のことに限らず、日々の生活や仕事の中でも同じだと感じます。でも最終的には、教育や政治というものについても考えるべきだと、個人的には強く思うのですけどね。

 

特にここで解決策を書くわけではないけれど、まぁやっぱり選考の過程とか成果物の制作フローとか提出フォーマット、画像検索による著作権チェックとかから始まって、もう少し広げるとそもそも委員会の組織体制とかオリンピック事業そのものの体制とかまで、色々出てきそうではありますよね(すでに色んな方が書かれてますが)。

個人的には、成果物がどういう意図を辿って最終形態になったのか、言語やスケッチといった段階から全てオープンにしたうえで公共の場でプレゼンテーションを行う、というのは単に好奇心から見てみたいなあと思います。